いやなことがあった帰りの電車。揺れる個室の中でうつむいていろんな否定ごとを考えていると、突如として暖かなものに首を包まれた。
何だろう。
ぐに。
一度目の圧迫では、その温もりある柔らかな感触にどこか懐かしい感覚をおぼえた。
ぐに。
二度目の圧迫では、その圧迫の形から首を包むものが人間の指なのだと察知して、私は自分が危機にいるのだと気付いた。
ぐ、
また首筋に指が沈もうとしていた。
攻撃を怯えた私は、勢いよく振り返ることで圧迫を避けようとした。握りは想像していたよりも弱く、指先はあっさりと視界の中に現れた。
皺の密度のわりに血色の良い二つの手。
その向こうには、見知らぬ老紳士の顔があった。
「大丈夫かい?」
老紳士はまったく慌てることなく、まったく悪びれる様子もなく、手の輪っかを宙に浮かせたままにこりと笑った。
何だろう。
私は、どうしようかと悩んでしまった。
加害者を真正面に置いてからどうすべきか、明確に決めていたわけではない。とっさの事態なのだからそれは当然だろう。
しかし、物事にはある程度の定まった流れというものがある。何の予定がなくとも物事さえ目の当たりにすれば、私は自分がすべきことを見つけだし、怒声をあげるなり泣き声をあげるなり反撃の暴力を振るうなり、ごく自然な流れに乗って行動を起こし、一つの物事を正しく発展させられるはずだった。
相手が私の首を締めておきながら、同時に私のことを心配していた。
この場合、どう動くのが正しいのだろう。
解決のヒントを探し出そうと右に左に視線をやるが、老紳士のほかには電車の小ぎれいな設備と無関心に通り過ぎていく街並があるだけ。助けを求めようにも人はいない。
そもそも人がいたとして、今現在のこれは助けを求めて無理のない状況なのだろうか。それすらも判断がつかない。
どうしよう。
何か言うべきなのか?
文字列なら頭に浮かんでいる。「私に危険といえるものは何事だって差し迫っていなかった。そのように意識できるものといえば、あなたが宙に浮かせているその両腕が唯一無二であり、腕の持ち主たるあなた自身が危険の対象だ。そんなあなたがなぜ私の心配をしているのか。今、私はとても理解に苦しんでいる」
そのまま言葉として放てば、少なくともこの停止状態からは免れられそうだ。すべての疑問が解決する可能性だってある。
わかっている。
けれど、この文字列は言葉の形をしているようで言葉として成立していないのだ。脳みそから口に命令を送ったところでエラーを引き起こし、口はただ母音混じりの息をこぼしながら歪むだけだ。
現に、そうなっている。
老紳士は、口を半開きにした情けない私を見ると、さらに満足げに笑みを深めて一人頷いた。
「よかった」
混乱の層が増す。
「若者はそうでないと」
空中で停止状態を保っていた老紳士の片腕が動いて、私の頬を撫でた。
暖かで、柔らかい。
いやな気分は生まれなかった。それどころか、指の一本一本まで優しい感情が詰まっているような感じがした。
指だけじゃない。彼の笑顔や視線にも同じ感情が満ちている。
老紳士の視線が私の目から外れた。そのまま下っていって、肩や腰のあたりを通ってふたたび「よかった」と頷く。
よかった?
何が?
巻き戻っていく老紳士の視線を追いかけて、私は私を見つめる。
足腰は猿から進化し、丸まった背筋はしゃんと伸びていた。死体のように凝り固まった頬は発熱していた。鈍色に乾いた目玉は活力で潤っていた。
すべて、ほんの一分前には失っていたものだ。
「ああ……」
私はようやく声をもらした。
お礼。伝えるべき言葉は知っているのだが、脳みそと口の連結は未だうまくいっていない。
ただ、滲んだ表情で彼には伝わったようだ。老紳士は私に向けて頷くと、頬に添えた親指をクイと動かし、遅れて準備が整った「ありがとうございます」の言葉を遮る。
「いいんだ。僕は、若者の暗い顔なんか見たくないってだけさ」
私は首の傾きで返事をした。
「ほら」
老紳士が、ふわりと両腕を宙に泳がせた。
「たいていの人間は、こうやって首を揉まれると生命を取り戻すものなんだよ」
自分の頬に二つの手のひらを滑らせ、首元へと下ろしていく。包まれる感触に彼は目を閉じた。
私も自分の頬を撫でた。首筋を包み込む。
……。
景色が止まって全身が傾く。指のかたまりがほどけた。
目を開けると、老紳士とふたたび目が合った。お互いに姿勢が砕けているのがおかしくて、くすりと笑った。
どちらからともなく手を差し出す。
ぐに。
一秒と少しのあくしゅ。すべての感情がお互いに繋がった気がした。
慣れたホームに足をかける。今日、この電車に乗るときには想像もできなかった軽やかな気分だ。アスファルトと靴のあいだからは小気味のいい音が鳴っている。
電車が走り出す。
別れた老紳士の体は別の車両へと向いていた。彼が見る車両の窓際には、新入社員か就職活動中らしきスーツ姿の青年が暗くぼやっと立っていた。
老紳士は一歩二歩と近付いていく。私のいる場所からはさらに遠ざかるあちらの車両へと、音を立てないように腰を落として、注意深く、しかしとても素早く。
私は、彼のうしろ姿に一礼する。
見えてはいないだろう。しかし、冷静に考えてみて、この先彼ともう出会えない可能性の高さを思うと、どうしてもそうせざるを得なかった。
老紳士を見失い、電車も見失う。
「ありがとうございました」
本当の冷静さを取り戻したのは、夕食の二品目をつついたそのときだった。
2009年04月13日
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