どこかの洞窟で水滴の音が響いている。一刻も早く寝床を確保しなければ、刺身にされてしまうはずだったが、先刻の墜落時に紛失してしまった指輪の行方がどうしても気になり、となりの席の45歳の男と向かいの席の26歳の女に、それぞれ20分間の取り調べを行なった。当然のことながら、男は何も知らず、女は知っていて、条件付きではあるが腕のいい皮膚科の所在を聞き出すことに成功した。左腕の歯型(女の条件は「かじらせてくれるのなら」だった)がズキズキと痛むが、愛猫の死骸を運ぶことを思えば、そんな痛みがなんであろうか。それにしても私の腕にかじりついた際の女の目が頭から離れない……。シャツのボタンの糸がほつれていて、引っ張るとボタンは落ちてしまった。拾おうとしゃがみ込むと、そこは水面だった。ああ、先程の水滴の音は、ボタンの音だったのか!孤独ナイフをチラつかせながら歩く男とすれ違い、謎を掛け合う恋人達の脇を通り抜け、臨終の床でもがき苦しむ老婆を尻目に、かじり女の教えてくれた皮膚科へと急いだ。皮膚科の玄関に張られた「面会謝絶」の張り紙には目もくれず、乱暴に扉を開け、皮膚科のトイレへと押し入る。ポケットから取り出した真鍮の爪切りで、急いで両手の爪を順に切る。完璧なる深爪でオレンジを買い占める自分を想像しただけで、不覚にも尿意をもよおしてしまった。トイレの壁のタイルの数を一心に数えていると、臨終の老婆が墜落と刺身の秘密を握っていたことに思い当たり、ギクリとする。他人の寿命に、自らの運命を支配されているかのような窮屈な感覚。いつの間にか狭いトイレ内に人が溢れ、息苦しくて仕方ない。詰まった便器から容赦なく溢れ出している水。どうやら詰まりの原因は排水口に引っかかっている指輪にあるようだ。勿論あの薄汚れた指輪が、私の落とした指輪なんてことは断じてない。どんなに形状が似通っていたとしても……。もう老婆は死んでしまっただろうか。正直なところ時間の感覚は全く失われてしまっていた。目の前を黄金の魚が泳いでいる。こんな時に刺身包丁を持ち合わせていないことがひどく悔やまれた。明日出会うはずの太った男が、目の前であくびをした。白目をむいた美人と珈琲を飲んでいる。沈黙が耳障りで金切り声を上げると、よりいっそうの沈黙が訪れた。切り離せない歯型の付いた左腕。そもそもなぜ寝床が必要だったのか。転倒し擦りむいた膝小僧が、老婆の顔に見えた。皮膚科の院長の胸には、孤独ナイフが突き立っていて、日本国旗のように絶命していた。無数の孔に埋め尽くされた顔面の男が、無数の洞窟のひとつを指差している。答えなのか罠なのか、それとも何の意味もないのかも知れないが、私は指差された洞窟へと歩を進めるしかなかった。
2009年04月13日
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