2008年09月26日

滝本賢太郎 / 「まぼろしづくし第四話/さて、いったいどの器官に起こったものなのか」

 わたしとシィは新橋駅に続く小径を歩いていた。ひとつの線をずっとなぞるように進んでいた。女の差し出した手に走る、そこはかとない暗みをにじませる皺のひとつを、つうと爪で追っていくように。
 門をくぐった。狛犬も天狗も稲荷もいる神社を横切った。ビルに挟まれた空き地に繁る草の一つをむしった。いつ頃つくられたのか推測しがたいポルノというよりホラーじみたポスターが覆う映画館に目をやった。
 そのあたりから吐く息に他人の息の匂いがかぶさった。妙なぬくみを感じた。爪を立てて、手の上の皺を追うのである。女もくすぐったがる。水のはねるようにかなしく笑って、わたしの指を挟む。包み込む。いけないわ、と言う。
 わたしとシィは性具を扱う店の戸から漏れる光を見た。陰にざっくりと開いている。いけないわ、の声はすぐに失せて、また息が直接口の中にさしこまれた。
「巣のようなビルだね」
「蜘蛛かなにかの」
「しかし落ち着かないね」
「落ち着かない?」
「ああ、ひとつひとつ、くねくねした枠を外して、ばらばらにしたくなるんだよ」
 わたしは短く頷いた。広場の真ん中へと足は向かう。鳩がするように、いびつに並んで歩く。
「台風が来ているそうだね」
「その影響で、この空だろう」
「夜には荒れるのかな」
 旗が視野の端で揺れた。墨で書かれた勇ましいことばが風を受けて回っている。横付けされた黒い宣伝カーの屋根に乗る男が、にぎりしめたマイクの奥にある水を吸い込むような力強さで声を挙げている。風が強くなり、その声も散らばっていく。すこしばかり距離を取っているわたしたちの元に届くのは、プラットホームで案内を告げる車掌の声程度の広がりでしかない。
「時間は」
「まだ四時だよ」
「いや、雨風の強くなる」
「ああ、それ」わたしは黒い車以上に黒く、広場に置かれて、すっかり光の失せた鉄道を見る。べったりと覆うのは、内側からしみ出てきた色彩だろう。その周りに立つたばこを喫んだり、人待ち顔の彼らは、車の上の男の話をきいているのだろうか。
「夜半だよ、九時頃じゃないの」
「おまえの夜半って、ずいぶんはやいね」
「その頃にはくつろいでいたいんだよ」
 女はわたしの指をはさんだまま、もう片方の手でわたしのてのひらを開かせる。そうやってゆっくり、なにかを剥がす手つきがすべる。開いていく始終が女の目の奥へと向かい、はじらうあつさがどこかから滴った。
「夕には帰ってきてくださいね」
 わたしは頷いて、手を閉じようとする。女はそれを許さない。皺の奥に透ける静脈をつまもうとする。
「どうしていつも、東の方にいくのですか。東は、あまりいい方位じゃないのでしょう」
 だが通うキャンパスがその方角にあるのだから仕方がない。夕に、はやいうちに帰ろう。まだ街が混まないうちに切り上げて、自習室を出よう。そう思っていたが、シィと会って歩いているうちに新橋まで来てしまった。
 わたしは女の手の皺を更に下った。手首を縦に貫く二本の骨、その溝に触れる。道を歩いているとき、ふと女のすがたが浮かんだ。目を向けると景色のカーテンが、元通りにくるりと巻かれる。だがその奥で、わたしは自分の指が女の腕へと下っていくのを見る。拒む声の内側にくるまろうとしているのだろう。
「この頃はあまり夢を見なくなってしまってね」
「珍しいね、前は電車に乗ってても見たっていってたのに」
「うん、見るには見るが、しかしおもしろくもないのばかりで、すぐ忘れる」
 信号が変わる。緑の光を前に、雨もよいの薄暗さに映えた赤がまだどこかでくすぶっている気がしてならない。渡った先の大きな本屋の角を曲がる。すこしずつ白みが深くなっているせいか、路地がうすらさむい風にうもれている。この道を何ブロックかいったところにホテルがあったはずだ、わたしはあやふやなままに思い出した。二つのホテルの外観が浮かんで、一つを消していく。だがそうしているうちに、もう片方も消えそうで、急いでことばにしていく。
「あそこに高級ホテルがあるだろう、同期の女の子がいまそこに勤めていてね」
「ん、それが夢に出てきたの」
「いや、出てはいない。出たら困るな、たぶん好きになる」
「厄介だな、そういうの」
 まっすぐに延び、両側を高いビルに挟まれた谷のような道だからだろう、広場の男の声がまだひびいている。反響を繰り返しているせいでぐしゃりと割れてはいるが、とぎれることがない。どこか近づいているようにも響くが、風のせいだろうか。
「女が夢に出てきたらおしまいだよ、手中に入ってしまう」
 そんなことをあの女がきいたら、なんていうのだろう。涼しく笑ってみせるだけだろうか。それとも、後でわたしに詰め寄るのだろうか。その女もむかし、夢にあらわれている。当時、女の目に、なんとなくそのことが見透かされているように感じたのを覚えている。
 声がゆっくりと形をむすび、ゆれる。それが花びらをべろりとつまみ上げられた花を思わせた。そのままひらひらと散る。車道を例の勇ましいことばと共に、いびつな格好で散っていく花に囲まれた男が過ぎる。ゆるい速度で黒い車は有楽町へと走っているのだ。男はその上で、不動のままでいる。声の芯は男の顔と同時にくずれた。
「旗はどうなったんだろうね、あの広場のは」
 夜更けに女はわたしの爪を切った。ぱちりぱちんと、心地の良いはぜる音がした。
「親の死に目には、もう会えますまい」
「いえ、それは自分で切ったときのことでしょう」
「夜に切ったらだめなのです。それに、あなたが切るのもわたしが切るのも、同じこと」
「迷信です、でももう切るのはよしてください」
「わたしの死ぬときは見ていてくださいね」
 女はわたしの指を胸の上あたりに導いた。女の肌の白の上に、わたしの爪が立って、ほんのり赤らんだ。
「貝のようですね」
「見えないでしょう、そうは言うけれども」
 わたしは無邪気に女の寝間着の釦を外していく。さっと色彩がひらめいた。その鋭さに押されて、指の腹で貝のような跡にしようと力を込めた。骨などないかのように沈んだ。
「風が強かったからね」
「まあ、旗なんて」
 声がふたたび向かってくる。車が戻ってきたのだ。わたしたちは口をつぐんだ。耳だけでなく、喉もふさいでしまうほどの音である。男はまた大通りへと吸い込まれ、残響が曇る白に織り込まれた。
「寄らないのかい、静かになったところで」
「ホテル? 仕事中だろう、それにこんな高いところ」
「夢に見ていないしね、まだ」
「みたとしても、だよ」
 夜明け、女につかまれたのか、わたしがみずからつかんだのか、二つの手はつながっていた。からだの中にはだるさがとどこおいっていて、それがみな女のてのひらへと移っていくように思い、引っ込めた。女の手首に、小指の爪ほどの赤い染みがあった。カーテンを閉めた暗みにも、それはぼやけながら浮かんでいる。
「あなたが抑えていたのですよ」
「ああ、ごめん」
 わたしも自分の手を見る。中央のくぼみよりすこし上のあたり、同じように赤い染みがある。
「悪い癖」と女は笑って起き上がる。わたしも布団をはがす。着物と布とケットと、それらの擦れる音の奥ですべてをひとつにまとめるように雑音が響く、人の声がする。ラジオが着く。
「台風、よ」
「うん」わたしはそのまま聞いていた。夜半過ぎの雨風のはげしさが、しきりに心配された。
posted by mistoa at 09:22| Comment(0) | TrackBack(0) | mistoa vol.5 archives | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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